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普通の話

 

 おはようございます。

 

 みなさんは「普通」ですか?

 

 私は、これまでの人生を振り返ってみると、「普通」に分類されたことも「普通じゃない」に分類されたこともありました。

 大人になって働いているといえば普通かもしれませんが、34歳で個人タクシーになったといえば普通じゃない部類でしょう。

 

 もちろん、ずっと普通、ずっと普通じゃない、という方もいるかもしれません。

 

 しかし、ずっと普通と言っても何かしらの個性・特性・特徴があるでしょうし、ずっと普通じゃないと言っても寝て起きてご飯食べて催すはずです。

 

 

 そもそも、普通という概念がよくわかりません。

 

 どこかに線があって、線のどちらかが普通でどちらかが普通じゃないなんて決められるわけもなく、なんとなーく多数意見のようなものが構築された結果、それが普通とされて。

 

 わりと若い頃から、普通ってなんやねん、と思う普通じゃない若者でした。

 いや、意外とみんなそんな事を考えているかもしれず、普通なのかもしれません。

 ひょっとしたら「普通じゃない」方が斜に構えてカッコよく見えるのでそうなりたいだけなのかもしれません。

 

 

 普通。

 

 普通の考え方。

 普通の生き方。

 

 先日、「N学園から慶應や早稲田に入った」という記事を目にしました。

 

 以前は、学校に行けない子は普通じゃないという風潮があったと思います。

 しかし、今は「学校に行けない・行かない」ことがだいぶ受け入れられてきているように思います。 

 いわゆる多様性でしょうか。

 

 

 人間は各自の目で世界や社会を見ているので、同じ事象であっても私の見え方と人の見え方は違うかもしれず、当然、感じ方も受け止め方も違うかもしれません。

 

 むしろ、違って当然だと思います。

 

 そう考えると、同じ世界同じ社会で生きていながら、同じではなく、もはや「普通」などという概念が意味をなすのか疑問に思えます。

 「普通の考え方・普通の生き方」に使われている「普通」という言葉は要するに「多数派」ということであり、決して「正常」ということでありません。

 

 普通じゃない=正常じゃない

 ではなく

 普通じゃない=少数派

 というだけであって、少数派が正しいこともあること、少数派がより魅力的であることは普通の大人は理解できるでしょう。

  

 

 大事なのは、「自分や世の中にとって普通」かどうかではなく、「その人にとって普通」かどうかだと思います。

 そのうえで、それが世の中のルールである「法律」や「マナー」や「モラル」に触れるかどうか。

 

 

 私は少数派も受け止められる存在でありたいと思います。

 妻と付き合い始めのころ、遠距離恋愛で、フリーターで、お笑い芸人を目指していて、遠いから泊まる前提でいきなり彼女(妻)の実家に遊びに行った私を、義父は「よう来たな!あがれあがれ」と最初から受け入れてくれました。すごく嬉しかったことを覚えています。

 

 娘を持つ今の私から見て当時の私は「単なるアホ」です。

 それを受け入れてくれる人がいた。

 

 今度は私が受け入れられるようにと思っています。

 普通じゃなくていい。