おはようございます。
戸籍に「昭和20年〇月〇日時刻不詳ルソン島○○州○○に於て戦死昭和22年〇月〇日東京地方世話部長心得○○報告昭和22年同月〇日受附心得」と書いてあります。
紛れもなく、第二次世界大戦による戦死でしょう。
この方には小さいお子さんがいらっしゃいました。
お父さんの帰りを待ちわびていたことでしょう。
終戦後、帰らぬ父に不安を覚えたことでしょう。
報告を受けたとき、2年前に戦死していたことに驚き、嘆き、泣いたことでしょう。
そんなご家族が、日本中にどれだけいたことか。
戦争は、「時の政権が」とか、「イデオロギーが」とか、「正義だ」「悪だ」と騒いだところで、結局のところ、「数多くの人が死ぬ」ことに変わりはなく、1人の死は、その1人を待つ家族を泣かせ、友人を泣かせるだけであり、そこに笑顔は生まれないことを忘れてはいけない。
何ら実体験を持たない我々世代がはっきりと認識をしないと、歴史を繰り返しかねない。
我々世代で繰り返さなくとも、子供、孫、と世代が進むにつれて、社会全体が実体験からどんどん遠ざかることは間違いがなく、伝えることの重要性を認識する。
戸籍の中で、カタカナがたくさん書いてある行はすぐ目につきますが、たいていは異国の地での戦死の記載です。
戸籍調査はそこで手が止まり、昭和初期のある春の日に訪れたある家族の悲しみを想像します。
平成末期のある冬の朝、見知らぬ先人のご冥福を祈り、珈琲を飲んで、一日が始まります。
髙野守道