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救命救急

 

 「ご本人の状態が悪いので、救急搬送しました。」

 

 という連絡を受け、某病院の救急救命センターに行ってきました。

 

 これまでも、後見人として、一般病棟、閉鎖病棟など、各種病院に行きました。行くたびに医師や看護師さんに尊敬の念を抱きましたが、本日伺った救急救命センターは、まさに命と向き合う場であり、尊敬の念は深まりました。

 

 私が入った場所は、救急措置を終えて一段落し、様々な機械につながれながら、様子を見るための病棟と思われ、救急措置をしている現場を見たわけではありません。しかし、約20ほどのベッドとナースステーションが一つの部屋に収まり、あちらこちらから、機械のアラームが聞こえてくる様子は、私には緊張感のある命の現場と感じられました。

 

 ただ、私が滞在している間、アラームで看護師さんが慌てたことはありませんでしたので、ひょっとすると、その音には段階等があるのかもしれません。

 

 そんななか、ある高齢のご夫婦の様子が目に留まりました。ベッド上の配偶者の体を一生懸命さすりながら、話しかけています。そして、わずかな視線の動き、口の動きを見て、その言わんとすることを代弁し、お一人で会話を成立されています。夫婦として培ってきた時間が、相手の意思をくみ取っているように見えました。

 

 専門職後見人と呼ばれる我々には真似できないことでしょう。あまりにも、ご本人のことを知らなさ過ぎます。自分なりに愛情を持っているつもりでも、家族の愛情にはかなわないでしょう。

 

 しかし、思考停止は職務停止。私は、ベッド上のご本人に想いを馳せました。ご出身、ご家族、ご友人、お家柄、ご経歴、これまでに交わした会話。

 あの人に連絡すべきか?

 いや、それは私の価値観に基づくもの、ご本人の意思は違うはず。

 でも、健康時の意思と瀕死時の意思は違ってもおかしくないと習ったじゃないか。

 私は酸素マスクを付けたご本人に声を掛けました。

 

 ご本人はわずかに目を開き、「あぁ」と声をだしてくれました。

 その瞬間、機械のアラームが鳴りました。まるで、話しかけるなと言わんばかりに。

 

 思えば不思議なものです。

 人間は機械ではなく、真の意味での頭の良し悪し、性格の良し悪し、優しさの度合い、社交性、独立心、数値化できない様々な要素で成り立っている、そんな風に思いながらも、最後は機械につながれ、波線や数値が画面に現れ、波線が直線になり、数値が0になり、ピーッと鳴ったら、人は死ぬ。30年ほど前に親父が死んだときもそうでした。ピーッと鳴ったとき(え?終わり?奇跡とかは?もうないの?)そんなことを思ったように記憶しています。

 

 アラームの意味を正確に把握していないものの、そんなに鳴るなよ、と思いました。

 

 

 本日の担当医の先生。まだお若く見えましたが、救急の現場に携わられているからでしょうか、落ち着いた雰囲気で、真摯に患者さんに向き合っておられるように感じました。後見人の最大ジレンマ「医療同意権がないこと」についても、すぐにご理解をいただきました。あるいはご承知だったのかもしれません。以前「医療同意しないって、あんたは、この人がどうなってもいいのか!」とおっしゃられたどこぞの医師とは大違いです。

 

 

 

 まだ、大笑いした顔を見せてもらってませんよ。

 

 機械の画面ではなく、ご本人の顔を見て、私は帰りました。