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生きる命の共感


 先日の松井秀樹先生の研修で紹介されていた『イワン・イリッチの死』ートルストイーを読んだ。

 心に残った場面は2つ。

 1つ目は、死が迫るイワン・イリッチが、自分の苦しみに共感してくれない妻に対して抱いた想いー過去現在においてお前の生活を形づくっていたものは 、なにもかもみんな虚偽だ 、お前の目から生死を隠していた機関(カラクリ)にほかならない』。

 人間は必ず死ぬ。生きている以上、必ず死ぬ。そして、今日を1日生きるということは、また1日死に近づくということである。なんと儚い存在なのか。にもかかわらず、死を感じながら日常を過ごす人は少なかろう。むしろ、敢えて死を遠ざけて忌み嫌う節がある。そして、求めるものは富や名声や地位、贅沢な生活や人に羨まれるような物である。それを、イワン・イリッチは、「虚偽であり生死を隠すカラクリにほかならない」とした。

 非常に秀逸な表現と感じる。健康な日常において、今日死んでしまうかもしれないと思いながら生活することはなく、昨日よりも多い富や多い名声を求めがちである。そして、誰よりも多い富や名声を得ることを成功と称し、賞賛する。しかし、それは虚偽であり生死を隠すカラクリなのだ。
 
 私の親父が51歳で死んだ時、なんとなく感じたことである。親父は、働いて働いて、真面目と言われ、中小企業ではあるが「君が次期社長だ」と言われ、さらに働いて過労とストレスから胃がんを患い51で死んだ。

 当時16歳の私は、そこからしばらく、生きる意味を探した。親父の人生は何だったのか?子供の目線からは、単純な要求「生きてて欲しかった」ただそれだけである。偉くなくてもいい、不真面目でもいい、野球の試合で勝利の報告をして「そうか良かったな」と言われ、20歳になったら「小僧、大人になったな」と言って欲しかった。

 この経験が、イワン・イリッチの思いに、私を深く共感させる。

 2つ目は、イワン・イリッチが死を感じ始め、周囲の嘘や「すぐによくなりますよ」という気休めに辟易とした時の、ゲラーシムという名の百姓の存在。

 ゲラーシムは、イワン・イリッチの身の回りの世話をしている。イワン・イリッチが、足が痛いから足を待てと言えば、ゲラーシムは、足を持つ立場である。そして、ゲラーシムが足を持つと、不思議と痛みがなくなるのだ。

 これは、ゲラーシムが心の底からイワン・イリッチのことを気の毒に思っていたことによる。周りが嘘で取り繕うなか、ゲラーシムはときに正直に接した。以下、そのシーン。

 「『人間はみんな死ぬもんですからね 、骨折るなあ当り前でがすよ 。 』と言った 。それは自分がこうした労苦をいとわないのは 、死にかかっている人間のためにしているからで 、こうして置けばまた自分が死ぬる時にも 、誰か同じ労苦をとってくれるかも知れない 、といったような気持を現わしたものらしい 。」

 これは、日々の後見業務で感じることである。後見人は特別な存在でもなんでもない。単なる役割だ。持ちつ持たれつの精神でしかない。年齢差からくる、年長者への労りだ。それは、いずれ自分に跳ね返ってくる。ベッドの上の被後見人さんは、数十年後の自分である。

 ベッドの上のイワン・イリッチが欲しかったのは、気休めではなく、死に行く人間への心からの労りだ。唯一、ゲラーシムだけが、そう接してくれた。だから、ゲラーシムが足を持ってくれれば、痛みが和らいだように感じたのだ。

 これは、本質を突いてると感じる。私も、ベッドの上の被後見人さんに、しょうもない気休めではなく、ゲラーシムの心で接したいと思う。自分の苦しみに共感してくれる他人の存在は、嬉しいものに違いない。

 この点は、また親父の話に戻るが、私が後悔している点でもあるのだ。親父が末期癌だとわかったとき、家族内で話し合った。本当のことを伝えるべきか否か。私は、伝えるべき、嘘なんかつけないと言った。しかし、最年少の私の意見が通ることはなく、本人には伝えないという方針が決まった。まさに、イワン・イリッチ状態だ。

 私自身が親になった今、思う。子供の嘘なんか、一目でわかるじゃないか。いつもと様子が違えば、すぐわかるじゃないか。ベッドの上の親父の目に、あの時の私はどう映っていたのだろうか。見舞いに行っても、私は顔を上げて目を見れなかったように記憶している。そして、なんてことのない話題「今場所は寺尾が調子いいな」などと親父が言えば、助かったとばかりに寺尾の話をした。テレビの画面を見ながら。

 おそらく、親父はすべてお見通しだったろう。そして、小僧、顔を上げろ、と言いたかったに違いない。そのために、どうでもいい話をしたのだ。

 私は、嘘で取り繕うべきではなかった。親父、癌はどうだ?痛いとこねぇか?と聞くべきだった。もっと言いたいことはねぇか?と聞くべきだった。
 
 イワン・イリッチは、死ぬ直前、虚空をもがいた手に年少の中学生の息子が接吻することによって、家族もまた苦しんでいたことに気がつく。家族がかわいそうだと思うと、不思議なことに、自分の苦しみが消えていく。そして、家族の苦しみを解放したいと思いながら、死ぬ。

 結局、イワン・イリッチは、家族に共感を求めたものの得られず、ゲラーシムの共感により救われ、最後は自らが家族の苦しみに共感することによって、解放されたと言えるでしょう。


 成年後見業務は、常に死が近くにあるわけではありません。基本的には、みなさん健康的に過ごされています。しかし、その時が来るのも事実です。その時、私はゲラーシムになれるか。共感できるか。過去の経験から、共感できるはず、と信じています。